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 準備委員会当時から、代表でもコンビを組む柱谷哲二委員長の要請で会合に参加していたのが井原正巳。選手協会立ち上げと同時に選手協会副会長に就任し、柱谷会長の引退後には意思を継いで会長となる。当時はJリーグにも逆風が吹く時代だった。

― 副会長になられたのは、どのような経緯があったのでしょうか。

「組織として活動する前、手弁当でいろいろな話し合いをしていたんですね。その当時から、前会長の柱谷哲二さんに「いろいろ話を聞いておけ」と言われて、ミーティングに参加していたんです。そういう中で副会長をやれと柱谷さんから話があって…」

― 柱谷さんが指名したそうですね。半強制的に。(笑)

「そうそう。(笑)もちろん、日本のサッカーのため、選手のためになるのであれば、ぜひ協力していきますということで受けさせていただきました」

― 当時、一番大きかった目標はどんなものでしたか。

「JクラブもJリーグも盛り上がるように、三位一体となって努力し協力しあっていくことが発足当時の一番の目的でしたね。もうひとつには、選手の立場というものをしっかりと確立していきたい、ということがありました」

― 立ち上げ時にはどのような苦労がありましたか。

「選手をやりながらでしたので、あまり活発に行動できたわけではありませんでしたが、JリーグやJクラブの方たちは、選手会と聞くと引いてしまって「大丈夫なのか、労組とかそういうのになるんじゃないのか」という心配をされていたようです。そのなかで、いい関係を築き上げるのに苦労しましたね」

― 1998年から1999年に移るオフに、会長である柱谷さんの引退がありました。その後、井原さんが会長に選出されましたが、当時のサッカー界の状況や選手協会の課題はどんなものがあったのでしょうか。

「サッカー人気が落ちてきて、契約内容が厳しくなりはじめた時期に会長になったんですね。
選手の反応も少し変わってきていました。立ち上げ当初、選手協会は自分たちを守るためのものであり、目に見えるメリットのようなものが返ってくるような団体ではないから、先行投資的に費用を負担してみんなで作りあげていこうよ、ということだったんです。でも、報酬もどんどん下がってくると、年会費を払うんだったらその分なにか返ってこないとおかしい、という意見をもつ選手たちが増えてきました。そんな選手たちの意思を統一させていくことがひとつの課題でしたね。選手協会の必要性や、どうあるべきかという方向性を、選手自身が考えてしっかりとした意見をもった集団にするということでしょうか」

― 難しい時期だったんですね。

「今はようやく軌道に乗りつつあると思いますが、それでも、Jリーグが出来てまだ10年しか経っていません。僕らの時代は、そういう難しい時期だったのかなと思いますね。
全てが手探り状態でした。組織をどのように作って、どのように運営していくのか。どれがいい、どれが悪い。なんにもわからない状態でやっていたんですよね。選手協会の規約もなかったですし、事務局の方たちの就労規則とかもなかった。そういうのをひとつずつS聞いたり、頼んだりしながら、作っていったんですよ。僕たちは社会人と言っても、そのようなことを経験しているわけではないですから、わからないことだらけだったし、組織を作ってそれを軌道に乗せていくのは、本当に大変だなと思いました。そうそう簡単にはいきませんし、いろいろな要素が必要ですしね」


【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
 
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