帝京高校で得たものは、仲間と厳しさと精神力。当時の帝京高校ってグラウンドが野球部と半分ずつだったんですね。それで練習がそんなにできないんですよ。面白いのが、グラウンドの名前まで決まっていたことですね。野球部と半分で使える広いグラウンドはレギュラーが使っているメインのグラウンド。野球ボールが一番飛んでくる次のグラウンドは「アステカ」。メインの横にタテパスをするだけのスペースがあって、そこは「マラカナン」そういう3つのグラウンドがあったんです。マラカナンはグラウンドというかスペースですけど。(笑)メインには名前がなかったんですが、みんながそこを目指すんですよ。面白かったですけど、厳しかった。今でも帝京高校の同級生に会うと高校時代の3年間の話で十分に時間が過ぎます。本当に人間的に鍛えられました。 ― 大学への進学 プロという選択肢はまだありませんでした。同期に田中達也(浦和)がいて、あいつを見ていたら「僕はムリだな、まだ違うかな」としか思えなかった。それほど達也はすごかったんですね。帝京時代でも、あの努力する姿勢というのはものすごいものがありました。 なので、大学に進学しようと思うわけなんですが、これがまた縁で。中央大学に推薦してもらうためには、最低でも国体出場が条件だったんです。高校2年生にミニ国体があって選抜で呼ばれて、その時のメンバーがそのまま国体にって感じだったのですが、先生が選考に出してくれなかったんです。1次、2次とミニ国の選手たちはみんな受かっていくのに、僕は選考に出してもらえなかったから「ああ、もうだめだ」と思って、中央大学に進学した先輩に「俺、だめです。条件を満たさないから…」って電話をしたんですね。どうしようかって思っていたら、国体の先生が最後17人から15人に絞る時に一枠入れてくれたんです。先生も渋々OKしてくれて。(笑)それで国体に入れたので、もう一度中央大学に行った先輩に電話したら「推薦枠の順位が決まっちゃった。入れない」ってことになってしまって。まだ選手権があるから、その後に声をかけてもらえるかもしれない、でもだめだったら大学は地元に帰ってもいいのかな…と考えながら、選手権に出ていたら、中央大学推薦の10人の中の一人の選手が「寮が汚い」という理由で推薦を蹴ったんです。部長から「すぐに手続きしてくれ」と電話がかかって来て、「どうしても行かせてください」と帝京の練習を怒られながら休んで、中央大学に入れることになったんです。その直後に帝京のメンバーからは外れましたけどね。(笑)中央大学以外にもいくつか候補があって、その中で帝京大学の広瀬さんという監督が「特待生としてウチに来い」って熱心に誘ってくれていたんです。最終的には中央大学と帝京大学の間で悩んだんです。関東1部と東都1部では差があるけど、帝京大学に進学すれば費用面で親孝行できるし。広瀬さんは進学問題で勝手なことをして外された僕をメンバーに戻してくれた人でもあったので、すごく悩みましたが、サッカーがうまくなりたかったから中央大学に進学しました。 ― 大学生時代(中央大学) 中央大学に進学して、寮を見て、「これは蹴った人の気持ちがわかるな」って初日に思いました。(笑)帝京よりひどかったです。部屋は2段ベッドが二つ、四つのロッカーと机だけのスペースだったんです。だから、4年間ベッドの上だけで生活しましたね。板をひいて、小さなテレビをその上に載せて、横になってみているという生活でした。寮には1年から4年までの4人が住むので、ずっと年上の人と接することが出来たのがとても自分の中では大きかったですね。4年生は就職活動とかをしていますからね。就職を身近に考えながらの4年間でした。
湘南に決まったのは、4年生の始めです。1年上の植村さんをスカウトの人が見てくれていたんですが、僕も一緒に見ててくれたようなんですね。湘南に入った時に植村さんが「当時、雄三のことも見ていたみたいだったよ」って教えてくれて。もうちょっと早く、学生時代に教えてくださいよ!って感じでしたけど。(笑)聞かされたのは大学4年生の始めでした。
― プロになれた一番のポイントは? やっぱり帝京高校の3年間です。大学4年間よりも、「マラカナン」の帝京高校の3年間が自分にとっては大きかった。何を学んだ、というわけではないんですが、人間的に、体力的に、精神的にも強くなりました。その3年間が自分にとってのベースとなっています。