J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

ENGLISH
HOME
  • NEWS
  • JPFA MEMBER'S BLOG
  • JPFAの活動
  • ARCHIVE
  • LINK
  • INFORMATION
  • 選手協会とは
  • ご挨拶
  • 理念
  • 組織
  • 役員
  • 名簿
  • 歴史
  • FIFPro
  • MAIL
  • 社会貢献
  • スクール
  • ボランティア
  • サッカーの普及
  • サッカークリニック
  • 引退試合
  • 契約・引退
  • 契約制度
  • 移籍の活性化
  • 契約上の支援
  • 公認選手エージェント
  • Jリーグ合同トライアウト
  • 講習会
  • 新人研修
  • 指導者ライセンス
  • 保障
  • 共済制度
  • 年金制度
  • セカンドキャリア
  • 引退後のサポート
  • コミュニケーション
  • Jリーグ、JFA
  • 総会.役員会.クラブ訪問
  • 公告
  • 公告
  • MAIL TO JPFA

  • PLAYER'S INTERVIEW
  • PLAYER'S HISTORY
  • CHECK&CHECK
  • ファミリーサッカークリニック
  • TRY OUT インタビュー
  • オレたちの世代 U-20 CANADA
  • 指導者への道
  • Out of Nigeria

BACK NUMBER

2009年度一覧
2008年度一覧
2007年度一覧
FILE001  
田村雄三 選手
生年月日 : 1982/12/07
身長/体重 : 179/71
ポジション : DF
経歴 : 帝京高-中央大

― 小学生時代(豊秋小学校)

意識してサッカーを始めたのは小学校1年生くらいです。3人兄弟で、兄が2人ともサッカーをしていたので自然と。ただボールを蹴っていただけでしたけど、兄が所属していたチームについて回っていました。少年団ではなく、ずっと学校のチームでしたね。監督は自動車学校に勤めている方で、朝練に来てくれていたんですけど、午後は仕事で来れないから、自分たちだけでやっていました。今みたいに戦術云々もなかったので、ただひたすら楽しんでボールを蹴るという感じでしたね。ミッドフィルダーをやっていたんですよ。当時は技術があったと思うんですけどね。(笑)

― 中学生時代(渋川中学校)

中学は近くの渋川中学校に進学して、1年の途中まで学校のチームに入っていました。2歳違いの2番目の兄が群馬では結構有名だったので、その弟だということで、チームにはすんなり溶け込めました。でも、1年の途中から前橋ジュニアに入ったんです。前橋商業に通っていた一番上の兄を教えたコーチが帝京出身の小林さんという方なんですけど、ジュニアユースを立ち上げる際に、「弟は練習に来ないかな」と誘われたんですね。それで、クラブチームっていうのは初めてだったんですけど、行ってみると上手い人ばかり来ていたので、中学とはレベルが違っていたんです。そこで渋川中学校でやるか、前橋ジュニアでやるか悩みました。親には「小学校6年間ずっと一緒にやってきた友達を裏切るのか?」って言われましたけど、結局、裏切っちゃいました。(笑)裏切ったというと言い方は悪いかもしれないですけど、「上手くなりたい」という気持ちがどうしても強かったんですね。そこでは、徹底して常にボールを動かすパス中心のサッカーでした。毎日毎日違う練習で、頭も使わなければいけなかったんですけど、毎日の練習が本当に楽しかったです。

― 高校への進学

前橋ジュニアでは、ガンバカップ優勝などの結果を残せたので、前橋育英の山田監督も、四日市中央工業にも、帝京高校にも「全員獲りたい」って言ってもらえたんです。みんなで悩みましたよ。僕は前橋ジュニアの監督と渋川中学の監督と話して、前橋商業や前橋育英に行くよりは東京の名門の帝京に行ったほうが大学へのパイプがある、頑張ってレギュラーをとれればいろいろな大学にサッカー推薦で行ける…というイメージがあったんですね。今は逆転して前橋育英のほうがあるかもしれないですけど、当時は帝京のほうが有力だったので、決めました。結局、僕の代のほとんどが前橋育英に行ったんですけど、一人四日市中央工業に行って、自分を含めて3人帝京に行きましたね。(今度はご両親は反対しなかったんですか?)両親は、前商の兄から「帝京は上下関係とかもすごく厳しいみたいだ」という話を聞いて、なんでわざわざそんなに厳しいところに行くんだ、家から通えるところでいいじゃないかって言っていたんですけど、でも行ってみたいんだ。あのユニフォームが着てみたいんだ。一番選手権に近い道かもしれないんだ。ということで説得しました。

― 高校生時代(帝京高校)

帝京高校は思ったとおり厳しかったですね。どうしよう? と思うくらい。(笑)やめて帰ろうとまでは思わなかったですけど。今でも鮮明に覚えているのが寮生活ですね。自分のイメージでは、寮はマンションでひとり部屋だと思っていたんです。それが入ったらものすごい寮でした(笑)。こんなところで生活できるのかなっていう感じだったんですよ。3年生になるとひとり部屋なんですけど、1年生のときは3人部屋で、ベッドの上しか自分のスペースが無い状態。両親と寮まで来て、父親は荷物を降ろすと「じゃあ、頑張れよ」みたいな感じですぐ車に乗ったんですけど、母親は泣いちゃっていて、後姿がすごく寂しそうでした。それをとても鮮明に覚えていますね。

帝京高校で得たものは、仲間と厳しさと精神力。当時の帝京高校ってグラウンドが野球部と半分ずつだったんですね。それで練習がそんなにできないんですよ。面白いのが、グラウンドの名前まで決まっていたことですね。野球部と半分で使える広いグラウンドはレギュラーが使っているメインのグラウンド。野球ボールが一番飛んでくる次のグラウンドは「アステカ」。メインの横にタテパスをするだけのスペースがあって、そこは「マラカナン」そういう3つのグラウンドがあったんです。マラカナンはグラウンドというかスペースですけど。(笑)メインには名前がなかったんですが、みんながそこを目指すんですよ。面白かったですけど、厳しかった。今でも帝京高校の同級生に会うと高校時代の3年間の話で十分に時間が過ぎます。本当に人間的に鍛えられました。

― 大学への進学

プロという選択肢はまだありませんでした。同期に田中達也(浦和)がいて、あいつを見ていたら「僕はムリだな、まだ違うかな」としか思えなかった。それほど達也はすごかったんですね。帝京時代でも、あの努力する姿勢というのはものすごいものがありました。
なので、大学に進学しようと思うわけなんですが、これがまた縁で。中央大学に推薦してもらうためには、最低でも国体出場が条件だったんです。高校2年生にミニ国体があって選抜で呼ばれて、その時のメンバーがそのまま国体にって感じだったのですが、先生が選考に出してくれなかったんです。1次、2次とミニ国の選手たちはみんな受かっていくのに、僕は選考に出してもらえなかったから「ああ、もうだめだ」と思って、中央大学に進学した先輩に「俺、だめです。条件を満たさないから…」って電話をしたんですね。どうしようかって思っていたら、国体の先生が最後17人から15人に絞る時に一枠入れてくれたんです。先生も渋々OKしてくれて。(笑)それで国体に入れたので、もう一度中央大学に行った先輩に電話したら「推薦枠の順位が決まっちゃった。入れない」ってことになってしまって。まだ選手権があるから、その後に声をかけてもらえるかもしれない、でもだめだったら大学は地元に帰ってもいいのかな…と考えながら、選手権に出ていたら、中央大学推薦の10人の中の一人の選手が「寮が汚い」という理由で推薦を蹴ったんです。部長から「すぐに手続きしてくれ」と電話がかかって来て、「どうしても行かせてください」と帝京の練習を怒られながら休んで、中央大学に入れることになったんです。その直後に帝京のメンバーからは外れましたけどね。(笑)中央大学以外にもいくつか候補があって、その中で帝京大学の広瀬さんという監督が「特待生としてウチに来い」って熱心に誘ってくれていたんです。最終的には中央大学と帝京大学の間で悩んだんです。関東1部と東都1部では差があるけど、帝京大学に進学すれば費用面で親孝行できるし。広瀬さんは進学問題で勝手なことをして外された僕をメンバーに戻してくれた人でもあったので、すごく悩みましたが、サッカーがうまくなりたかったから中央大学に進学しました。

― 大学生時代(中央大学)

中央大学に進学して、寮を見て、「これは蹴った人の気持ちがわかるな」って初日に思いました。(笑)帝京よりひどかったです。部屋は2段ベッドが二つ、四つのロッカーと机だけのスペースだったんです。だから、4年間ベッドの上だけで生活しましたね。板をひいて、小さなテレビをその上に載せて、横になってみているという生活でした。寮には1年から4年までの4人が住むので、ずっと年上の人と接することが出来たのがとても自分の中では大きかったですね。4年生は就職活動とかをしていますからね。就職を身近に考えながらの4年間でした。

湘南に決まったのは、4年生の始めです。1年上の植村さんをスカウトの人が見てくれていたんですが、僕も一緒に見ててくれたようなんですね。湘南に入った時に植村さんが「当時、雄三のことも見ていたみたいだったよ」って教えてくれて。もうちょっと早く、学生時代に教えてくださいよ!って感じでしたけど。(笑)聞かされたのは大学4年生の始めでした。

― プロになれた一番のポイントは?

やっぱり帝京高校の3年間です。大学4年間よりも、「マラカナン」の帝京高校の3年間が自分にとっては大きかった。何を学んだ、というわけではないんですが、人間的に、体力的に、精神的にも強くなりました。その3年間が自分にとってのベースとなっています。


【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫

COPYRIGHT(C)J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION. ALL RIGHTS RESERVED.