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| 若林学 選手 |
| 生年月日 |
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1979/06/03 |
| 身長/体重 |
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188/77 |
| ポジション |
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FW |
| 経歴 |
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宇都宮工高-日立栃木サッカー部-栃木SC |
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― 小学生時代(粟野町立粟野第一小学校)
サッカーを始めたのは小学校3年生からです。三歳年上の従兄弟がサッカーをやっていて、よく遊びに行っていたんですけど、従兄弟のボールを持ちだして蹴っていましたね。チームの先生は熱心に教えてくれたんですけど、地区大会は勝ち抜けても、県大会ではなかなか上位にあがらないというようなチームでした。僕自身はずっと中盤で、4、5、6年と県のトレセンに行っていました。
― 中学生時代(粟野町立粟野中学校)
入学する前までは、厳しい監督がいて10km走とかやらされる…という話を聞いていたんですが、いざ入学すると、その先生は異動で別の学校に行ってしまい、サッカーをあまり知らない先生が監督になったので、なにか印象に残るような練習をしたという記憶はありません。中学時代も地区予選は勝ち抜けるけど、県ではなかなか勝ちあがれないというようなチームでした。個人としては、県の選抜には入れず、地区選抜止まりでした。
― 高校への進学
親が建築の仕事をしていて、宇都宮工業の建築科はどうだ、という親からの勧めがあったんです。当時景気もよかったですし、僕は長男でしたので、親も後を継がせたいと思っていたようですね。サッカーは地区選抜止まりだったし、チームメイトには県選抜もいたし、関東選抜もいたので、上にいけるとは思っていなかったんです。プロなんて…とクールに悟っていたというか(笑)。ただ、サッカーは好きでしたし、続けたかったので、サッカー部には入るつもりでした。
― 高校生時代(栃木県立宇都宮工業高等学校)
野球は有名な学校だったんですけど、サッカー部は3年生になったら受験のために部活をやめるような、そんな部でした。県大会でベスト16で終わるような、決して強い学校ではありませんでした。個人としても国体の最終選考までは入ったんですが、国体には出られませんでした。ただ、監督は県では名前の通った方で、監督のツテで、一度だけサンフレッチェの練習に参加させてもらったことがあります。高木さんとかノジュンユンさんとかが現役でバリバリにやっていている時代だったんです。僕は高校時代は中盤をやっていたんですが、サンフレッチェはディフェンスが欲しいということで、ディフェンダーとして練習に参加したんですね。でも、ディフェンダーなんてしたことがなかったから全然わからなくて。一度、練習試合に出させてもらったんですけど、なにも出来なかった、という印象しかありませんでした。なにがなんだかわからず、レベルがどうとかも感じられなかったし、ただ広島に行って練習に参加してきたという印象しかありませんでした。
毎年、宇都宮工業サッカー部からサッカー部に入る前提で日立の栃木工場に一人入社していたんですね。日立の栃木工場は広大な敷地を持つところで、その中に建築をやっている孫会社があったんです。僕が3年生の時に先生から話があって、僕もサッカーを続けたかったですし、建築の仕事をしながらサッカーができるんだったらいいなって思って、すぐに決めました。所属はその孫会社ということで、日立栃木のサッカー部に入りました。
― 日立栃木サッカー部
仕事はリフォーム関係の建築工事の現場監督業務をやっていました。練習は週2回で日曜に試合をして。みんなで仲良くやっているサッカー部という感じでした。県1部リーグの中では日立栃木はずっと強かったんですけど、なかなか勝てず、4年目に優勝して、ようやく関東リーグ2部にあがれました。
4年目に成年国体に呼ばれて、5年目に栃木SCに移籍しようと決めました。本当はもう1年早く栃木SCの方から声をかけてもらっていたんですけど、ちょうどその年が関東リーグ2部にあがった年だったので、丁重にお断りさせていただいたんです。ただ、成年国体は栃木SCの選手たちがメインで、そこに入ってプレーしていたんですが、仲間のレベルがとても高くて、それは全国でも通じたんですね。その面白さを肌で感じてしまって。それを忘れられなくて。関東リーグ2部のために日立栃木サッカー部に残ったのですが、「栃木SCでやりたい!」という気持ちが強くなってしまって。翌年も誘ってもらった時に決心して、上司から社長まで「行かせてほしい」と話をしました。サッカー部に入る前提で入社しているし、普通、会社に残りながら他のサッカーチームに行くような待遇はないんです。でも、上司がすごく僕のことを応援してくれていて、後押しもあって仕事を続けながら栃木SCに行かせてもらえることになりました。
― 栃木サッカークラブ
僕がいた時は、月曜と金曜だけ休みで、後の曜日は午後7時か7時半から練習をしていました。練習をしていたのは宇都宮で、僕の住んでいた町から車で1時間かかるんですが、毎日仕事を終えて、本当は残業もしなくちゃいけないんですけど、そこを上司が手伝ってくれたので、すぐに寮に戻って着替えだけ持って車で宇都宮に向かって、車で着替えて、グラウンドに入る頃にはアップが始まっているような、そんな状況でした。帰りは寮に戻って11時くらいで、食事をとって風呂に入って寝るので精一杯でした。朝は7時に起きて、8時前には会社に行って。すごい時代でした。でも、時間のなさを引き換えにしても、栃木SCでやるレベルの高いサッカーは楽しかったですし、応援してくれている会社の人たちがいましたから、苦労だとは思いませんでした。
高橋監督にはいろいろと教わりました。栃木SCは前線からデイフェンスをするサッカーで、フォワードとしてそこまで守備を意識したことがなかったので、高橋監督には毎回のように怒られていましたね。やはりJFLはスピードや強さなど全てにおいてレベルが違いましたし、慣れるまで時間はかかりました。戸惑ったというか。1年目は僕と同じタイプの人がいて、その人が不動のレギュラーだったので、僕はサブが多かったんです。それでも毎試合使ってもらえていたので、徐々に慣れてきていました。1シーズンを通じて、自分の通じるところもわかり、監督に怒られながらも上達した部分もありました。ただ、それ以上に1シーズンで3点というのはフォワードとして少ない数字なので、強引にでも結果にこだわらなければ…というように気持ち的なものが変わってきたんですね。そんな要因もあって、2年目から先発で出られるようになったんです。20試合で14点と結果もついてくるようになりました。
水戸に練習試合に行った時に、試合前に駐車場で高橋監督から呼ばれたんです。「俺、またなんかやったかな?」と怒られるつもりで行ったら、「大宮から話が来ている」って話だったんです。高橋監督からは「今シーズンは残って欲しいんだけど、大宮もシーズンが終わるまでは待てないということなんだ。後は自分で決めることだから」と話をされました。Jなんて考えてもなかったですし、ものすごい驚きでした。直前までプロと練習試合が出来ることなんて滅多にないことなので、水戸との練習試合をすごく楽しみにして行ったんですが、もう、それどころじゃなかったですね。(笑)1日経って、ようやく実感が湧いてきて、サッカーで生活するってどうなんだろうって興味が出てきて。その時点で会社には7年半いたことになるんです。「辞めちゃっていいんだろうか?」という疑問が頭をよぎったんですが、でも、ずっとサッカーがすごく好きで、一度もやめたいと思ったことがなかったので、そのことに気づいた時にはもう決断していました。上司に話したら「詳しい話は聞くけど俺はお前を応援しているよ」って言ってくれて。大宮に行くことになりました。
― プロになれた一番のポイントは?
考えたことはないですけど、本当にサッカーが好きで、やれるまでやりたいなって思っていましたし、サッカーだけは捨てられないなって思ってきた結果だったと思います。その気持ちを持ち続けてきたことが、今ここにいられる理由なのかなって思います。あと、周囲の人たちにも恵まれて、そのサポートがあったことも大きいのかなって思います。 |