― 小学生時代(取手市アセノスポーツクラブ)
1年生の時に実家の近所にあるクラブチームに入ってサッカーを始めました。たまたま公園に遊びに行ったらそのクラブチームがサッカーの練習をしていたので、勝手に参加したことがきっかけですね。だから、最初は月謝を払うことを知らずにやっていました(笑)。そういえば、最初は野球もやっていたんですけど、野球のセンスはあまりなかったんですね。でも、サッカーは可能性を感じたし、なによりも楽しかったんです。だからサッカー一本にすることにしました。
アセノスポーツクラブは、いわゆるクラブチームでしたし、監督はドイツでサッカーの勉強をしてきた方で、個を伸ばすことをコンセプトにしていたので、チームを強くするよりも個を生かす指導が中心でした。だからチームはそんなに強くありませんでした。でも、個人の能力を上げてくれたので、中学校に進学して部活に行った選手は、チームの中心になっていましたね。練習では、特にドリブルの練習が多くて、とても面白かったんです。一度も休みませんでした。学校を休んでも、クラブには顔を出していました(笑)。また、監督は挨拶などの礼儀にも厳しい人でした。よく親が、「学校の先生の話は聞かないのに、監督の話はよく聞くね」と言っていたことを覚えています。
個人としては、取手市の選抜も、茨城県の選抜にも入ったことがなかったんですが、監督の口利きで、ミロカップという世界大会のセレクションにうちのチームから何人か参加したんです。それに僕だけ合格して、突然13歳以下の日本選抜に入りました。地域の選抜にさえなったことがなかったのに。そこには、山田暢久(浦和)とか川口能活(磐田)とか有名な選手がいましたよ。みんな上手いからいい経験にはなったけど、僕自身はそんなにレベルが高くなかったので、ついていくのが大変でした。練習もきつくて、合宿を抜け出したいと思ったこともあります。かなり辛かった記憶ですね。
― 中学生時代(所属なし)
中学校進学前に、読売ジュニアユースのセレクションを受けに行ったんです。そうしたら、200人を超える参加人数の中で、小見さんに見てもらって、一人だけ受かったんです。でも、自宅からあまりにも距離が遠かったんですよね。だから、行きませんでした。レイソルも受かったんですけど、レイソルにも行きませんでした。行っていたら、人生は変わったかも知れませんね。でも、大勢の中から選ばれたということは自信になりました。
中学の部活は考えなかったのですが、アセノスポーツクラブにはジュニアユースがなかったので、大人の県リーグのチームに所属してプレーしていました。また、アセノスポーツクラブの別の指導者が浦安にスクールを開いたので、そっちに行って練習したりしていましたが、練習の絶対量はとても少なかったんです。もっと練習をしておきたかった、というのが今になって思うところです。それでも、中1、中2の頃にも日本選抜に呼ばれていました。そういう意味ではレベルは落とさずにいられましたが、伸ばすこともできませんでした。
― 高校への進学
3年生の時にサッカーをしないで受験勉強をしていたんです。そのうちに勉強は出来るようになったんですが、病気にかかってしまい、12月から2月まで入院していたんです。障害が残る、とまで言われていたんですけど、結果的には大丈夫でした。そんなこともあって、留年した方がいい、と言われたのですが、どうしても留年したくなかったので、高校受験は特別に保健室で受験させてもらい、なんとか入学させてもらうことができました。
― 高校生時代(トステムSC)
高校の部活には興味がありませんでした。強いチームだったらまだしも、留年せずに入学できただけで良かったという無名の高校でしたから。最初からサッカーは別のところでやろうと考えていたんですね。そうしたら、アセノの監督が茨城の下妻というところにあるトステムという会社の監督に就任したんです。トステムが上を目指すということで、県リーグから開始したんですが、そこに監督を誘ったんですね。そこに僕も呼ばれて、社会人のサッカー部に参加してサッカーをしていました。そこでも週3日か4日の練習でした。なので、高校時代でもみっちり練習したというイメージではありませんね。県リーグの試合にはたまに出ていましたので、試合勘は落とさずにいられたんですが、県4部というのは、試合5分前に来て、ハーフタイムには一服して…というような世界だったので、あまりレベルは高くありませんでした。それなのに「プロにはなりたい」という気持ちはずっと思っていました。
― 社会人時代(トステムSC)
サッカーをしながら、仕事もする、という条件で、そのままトステムの正社員として入社しました。当時は県1部にはなっていました。ただ、当然ながらそんなにレベルは高くありませんでした。そんな中、中国代表を経験している、中国ではものすごく有名な人がコーチとしてトステムに来たんです。そのコーチに目をつけてもらったんですね。「このままでは、プロになれないぞ」とそのコーチに言われたんです。「中国の広東クラブというチームの2軍に留学生として行き、そこのセレクションに受かればプロになれる。このチームから3人を推薦しようと思っているんだけど、その中にお前も入っている」ということを言ってくれて。引き止められましたが、監督を説得して、会社には1年間の休職を求めたんですけど、会社は休職を認めてくれなかったんですね。そこで迷ったんですが、実は、トステムに入ってから、JFLの富士通(現フロンターレ)のセレクションを受けてみたことがあるんです。高校のトップレベルや社会人のトップレベルとプレーした経験がなかったので、周りのレベルってわからなかったんですけど、富士通のセレクションを受けてみたら全く通用しなかったんです。このままじゃいけない。そう実感していたんですね。なので、会社をやめて中国に行くことを決意しました。
― 留学生時代(広東クラブ)
広東クラブの下部チームのレベルは高かったです。中国はフィジカルがあって当たりが強く、広東は南だったので、個人技重視だったりしました。練習は毎日2部練習で、本当に厳しかった。周りはみんなプロだったので、当たりに押されて、いつも転がされていましたし、膝に擦り傷が絶えませんでした。そんな中で集中してやっていくうちに、強さや環境に慣れていったんです。そこで自分自身が成長したんだと思います。その下部チームは日本で言うJ2にあたるリーグへ昇格のかかった大会に出場していたんですが、結局、上がれなかったんです。それで解散してしまったんですよ。でも、そのチームの中で4人だけ広東クラブのトップにあがれることになって、その中に僕が選ばれたんです。そこで、プロ契約をすることになりました。給料は月5万円でした。日本で考えると高くはありませんが、一般的な月収が1万円くらいでしたし、住居や食事もついていたので、不自由はありませんでした。勝利給も15万円くらいあったので、条件としてはかなり良かったと思います。もしかすると、今までで一番裕福だったかも知れませんね(笑)。
トップリーグのレベルはかなり高かったです。結局、僕は5試合程度しか出られませんでした。でも、バルデラマがいるチームと試合をしたり、ミランやナポリを呼んで、そういう試合にも少し出られたりして、いい経験になりましたね。
でも、この中国時代にとても伸びました。走らされたのもそうなんですが、言葉が通じないことによって、精神的にも鍛えられたんです。中国に渡った初日に食中毒になったんです。吐いて、下痢して。翌日、病院に一日入院したんですが、頼るものがあまりにもなくて、もう帰りたい、と思ったんです。それと共に、これからは一人で生きていかなくちゃいけないんだな、とも実感できたんです。18、19歳というまだ自分の芯になるものがない時期に、サッカーだけではなくて普通の生活でも勉強になったことは自分にとって、とても大きかったと思います。
1年半くらいして、リーグが外国人登録枠を5人から3人に減らすということになり、僕はその3人には残れなかったんです。それで香港のチームにレンタルされるということになったんですね。香港のチームは週に数回しか練習をしないということでした。それではダメだと思って、日本に帰国して、JFL時代の大分の練習に参加させてもらうことになりました。その時、初めて日本のプロチームに参加したので、自分がどのくらいできるのか、ちょっと不安はあったんですけど、二日目に早くも韓国人の監督から「欲しい」と言ってもらったので、中国から移籍することになりました。
― プロになれた一番のポイントは?
前向きに生きていたからですね。目の前にあるやらなくてはいけないことを、あまり深く悩まずに、ひとつひとつこなしていったこと。そうやって、いろいろな場面で、前向きに考えて、こつこつとやっていったことが良かったんだと思います。








