PROFILE
08.5.2 UPDATE

― 小学生時代(川上サッカースクール少年団)
三歳上の兄がサッカーをやっていたので、その影響で幼稚園の頃から少年団でサッカーを始めました。その少年団はなかなか強かったので、小学校に上がった時も、そのまま続けました。練習としては、リフティングの練習がすごく多く、全体的に高い技術を持った選手が多いチームでした。おかげで僕自身も2年生ぐらいからリフティングができるようになりました。試合に絡み始めたのは5年生からです。一つ上の年代の試合に出させてもらえるようになりました。当時はストライカーだったんですよ。自分で言うのもなんなのですが、わりとシュート技術があったんです(笑)。もともとチームは強かったんですが、2年生くらいの時に専門の指導者の方が来てくれて、そこからまた強くなり、常に鹿児島県内でベスト4に入るようなチームになりました。成績としては県大会準優勝経験はありますが、全国大会まではちょっと手が届きませんでした。個人的には県選抜どまりでしたね。選抜に行くと上手い選手がたくさんいて…自分は全然だめでした。特に城さんの弟(城和憲さん/元ホンダロック)が同学年ですごかったんですよ。最終的にプロにはならなかったですけど、小学校時代は優秀な選手がけっこう多かったんですよね。

― 中学生時代(鹿児島市立城西中学校)
小学校時代にいつも決勝で顔を合わせていたチームがあったんですけど、そのチームが城西中学校の地域だったんです。そのチームのみんなと一緒にやれたら楽しいだろうな、きっと強くなれるだろうな、と思っていて、城西中学校に行きたかったんですね。ただ、城西中学校までは車で30分ほどの距離にありました。もちろん学区も違いました。でも行きたい気持ちがとても強かったんですね。川上サッカースクールには同い年の従兄妹と一緒に通っていたのですが、従兄妹のお父さん…僕のおじさんがちょうど城西中学校の近くに勤めていたので、二人で一緒に越境で城西中に入り、毎日おじさんに送り迎えをしてもらいました。チームは自主性を重んじるチームで、メニューなども自分たちで組んで練習に取り組んでいました。とりあえず伝統として練習前に3km走があったんですよ。タイムを計って、上がった、下がったと言いながら走っていました。正確な3kmではなかったですが、11分くらいで走っていました。だから当時はクーパー走なんて余裕でしたね。すでに鹿実に行く素地が出来上がっていたというか(笑)。その甲斐もあってか、城西中はすごく強いチームで、3年生の時、県内では負けた記憶がありません。でも、九州大会では勝ち上がれず、全中に出ることはできませんでした。選抜は県選抜には入りましたが、練習どまりで、試合や遠征には行けませんでした。

― 高校への進学
サッカーをずっとやっていきたいし、プロになりたかったので、行きたいと思うところは鹿児島実業しかなかったんです。そこに、松沢先生から直接電話をいただいたので、少しも迷わずに鹿児島実業に進学することとなりました。

― 高校生時代(鹿児島実業高校)
今度はフィジカルトレーナーがしっかりついていたので、ただ単純に3km走ればいいという訳ではありませんでした。しっかりと脈もとって走りましたので、けっこう厳しかったですね。ロッカールームからグラウンドまで離れているんですけど、そこも歩いたらダメで、ずっと走っていました。それから練習が始まって、長い時間みっちりと練習をした後にフィジカルに入るんですよ。1000m5本とか8本とか走るんです。それから1年生はグラウンド整備して終了です。当然のごとく、1週間で10人くらいやめました(笑)。ただ、先生に誘われて入った選手は頑張って残りましたね。鹿実はとても強くて、1年生の時の選手権は全国で準優勝したんですが、ベンチに入りもしない状態だったので、僕はスタンドで応援をしていました。松井さんたちの代のチームはすごくかっこよかったんですよ。特に松井さん(ル・マン)と那須さん(東京V)は飛びぬけていました。練習の中で二人で1対1をする場面があったんですけど、それはすごく激しいものでした。そんな姿を見ながら、自分はもうだめかもしれないなあ、と思いつつもさらに練習に気持ちを入れ始めたのは1年生の終わりごろです。ここから伸びたんじゃないかと思います。試合に絡み始めたのは2年の最後の方です。僕は練習終わった後にも、2時間くらい自主練習を続けていたんですが、それをずっと続けていたある日の朝、松沢先生に「目が輝いている」って言われたんです。その後の練習試合で球拾いをしていたら「松下!」って呼ばれて。「はい!」って答えたら「準備しろ」と言われて、試合に出場しました。それからずっと使ってもらえるようになりました。3年生の時にはインターハイに出場して、準決勝で長谷部(ヴォルフスブルク)がいる藤枝東に負けてベスト4で終わりました。これも僕がやっちゃったんですよ(笑)。1-0で勝っていたんですけど、PKを与えてしまって、同点でPK戦になって負けてしまいました。かなり痛い思い出です。選手権でもベスト4に入りました。1回戦の青森山田戦で僕が得点を決めて1-0で勝ったのが印象に残っています。青森山田はジュニーニョ(元鳥栖)が良くて、前の年にかなり上位まで進んだんですが、そのチームを降したので波に乗れたかな、と思います。準決勝まで勝ち上がって、徳永(FC東京)とか徳重(神戸)のいた国見に1-4でボコボコにやられてしまいました(笑)。3年生では国体のメンバーに入りました。ですが、鹿児島は弱くて、あっさり負けてしまいました。

その後、ガンバから話をいただいたのですが、いつから見てくれていたのか今でもわかりません。ただ、ガンバに入った時のポジションは右サイドバックだったんです。僕が右サイドバックをやったのは3年のインターハイの時だったので、その時に見てくれていたんじゃないかと思います。インターハイが終わった後に進路相談があって、先生から「どうしたいんだ」と聞かれたんです。その時に、話が来ているかは知らずに「プロに行きたいです」と答えたんですね。そうしたら先生は「うーん…でも、なあ」なんて話して。(笑)とりあえず大学のセレクションを受けてこい、って言われたんです。大学のセレクションに受からない限りプロなんてないぞって言われて。そこで明治大学のセレクションを受けに行って、それには合格をもらいました。「ああ、このまま大学に行くことになるのかなあ」なんて思っていたら、練習が終わったところで先生から「おい、職員室に来い」っていきなり呼ばれたんですね。そこにガンバの強化の方が来ていたんです。それで「来てくれないか」と話をされました。驚きましたよ。でも僕以外の人はもうみんな知っていたんだと思います。その場で「行きます」って話をしたと思います。

― プロになれた一番のポイントは?
挫折があったけど、そこで挫けなかったことが最大のポイントだったと思います。僕は基本的に負けず嫌いなんですよね。同じ年で出ている選手もいて、くそう、負けないぞ、と頑張ったことが良かったんじゃないかと思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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