
― 小学生時代(千葉市立大厳寺小学校)
小学校1年生の頃から、学校が終わった後にサッカーをしていました。本格的に始めたのは部活に入れるようになった4年生からです。先生がものすごく熱血な方だったんです。試合をやっているのにメガホンを持って入ってきて、注意をするような。普通はそんな怒られ方をすると嫌になるものですが、そんなことを思わせないようないい先生だったんですよ。いろいろと遠征を組んでくれたんですが、行く前にその土地の歴史や風土を教えてくれたりするんですよね。里見八犬伝の土地に連れて行ってもらったことが強く印象に残っています。そのように、先生からは細かい技術ではなく、礼儀や物事に対する考え方などを教わりました。各学年1クラスしかない人数が少ない小学校だったので、総合力が弱くてなかなか勝ち上がれないチームでしたが、それでも市を勝ち上がって県大会に出たこともありました。
― 中学生時代(蘇我中学校)
周辺の三つの小学校が集まる中学に進学して、いきなり1学年8クラスになってしまいました。その中学校は強かったんですよね。メンバーも良かったんですが、先生も良かったんです。毎週土曜日になると、蘇我から市原の市原緑高校まで行って、練習をさせてもらっていました。中学校の先生が市原緑高校出身で、本田裕一郎先生(流通経済大柏高校)の教え子だったんです。この市原緑高校で鍛えられました。最初は全然だめでしたが、だんだんいい勝負になって、勝てるようになってきたんです。ただ、遠かったんですよ。自転車に乗って片道1時間。途中で不良の人に追いかけられたりしたこともあったんですよ(笑)。おかげで県内ではかなり強いチームになりました。3年生の時には全中にも出たんです。出たことだけで満足しちゃって、1回戦で負けてしまいましたが。中学校時代に小学校時代には全く縁がなかった選抜というものがあることを知りました。3年生の時、関東トレセンの選考会があったんです。中3が5人、高1が5人、高2が5人。その中3部門に受かって、トレセンに行けたんです。みんな上手い上に、高1高2だと身体も違うのでまったく歯が立たなくて。でも、そのことがすごい自信になりました。その後、全国のトレセンの話が来たんですけど、ちょうど膝の手術をした後だったので、それには行けませんでした。
― 高校への進学
県選抜が15人いて、いつもであればほとんどの選手が市船に行くんですが、僕たちの代は7人が市船、7人が習志野に分かれたんです。僕は、中学校時代の憧れの先輩で、高校時代にオリンピック代表候補にも入った仲村浩二さん(現福島尚志高校監督)が習志野高校だったんです。それがひとつの理由で、もうひとつは中学の先生を市原緑高校で教えていた本田先生が指導していたことです。それと、僕らの時代は市船は走りで習志野はテクニックだ、という評価だったので、テクニックの方がいいな、という気持ちがあったので、総合的に習志野に決めました。後は普通科にするか商業科にするかで、普通科を志望していたんですが、倍率が出た時に先生から「真司の内申じゃまずいんじゃないか」という話があって(笑)、商業科にしました。
― 高校生時代(習志野高校)
習志野高校は蘇我からだと電車の乗り継ぎが悪く、片道1時間半くらいかかったんですが、それをなんとか通いました。入って驚いたのがサッカー部の伝統です。春先の遠征から帯同したんですが、いろいろなしきたりがあるんですよ。1年生のうちは電車の一番後ろの車両にしか乗っちゃいけないとか、1年生は革靴ではなくてアップシューズじゃなくちゃいけないとか(笑)。他にもいろいろと面白いのがありましたよ。先輩の使い走りに行くと、先輩が10円くらいのお釣りをくれるんですけど、最初は断らなければいけないんです。2度目も断るんです。3度目には「ありがとうございます」と受け取るんですよね。それから「ピーペーとあったかマッコ」というのがあったんです。ピザペストリーと暖かいマックスコーヒーを略すんですよね。先輩に「ピーペーとあったかマッコ買ってきて」って頼まれて、走って買いに行ったりしましたね。(笑)夏に40日間のウルグアイ遠征があったんです。僕自身はすぐに腰を痛めてしまったので試合は1試合くらいしか出られなかったのですが、1年生だけの合宿だったので、上下関係を気にすることなく行けたので、とても楽しい思い出でした。当時の僕たちと同じ代が40人いるんですが、おかげで団結力はものすごかったです。今でも仲間は集まりますよ。
練習としては毎週のように順天堂大学と練習試合をしていました。順大のグラウンドが悪かったから、習志野でよく練習をしていたんです。大学生が相手になると、1年生ではまったく歯が立たないんですよね。でも練習試合を続けていって、2年生、3年生くらいになると、なんとか通じるようになってくるんです。当時の順大には名波さん(磐田)がいたんです。とにかく上手いし、カッコイイんですよ。みんなで「名波だ、名波だ」って思いきり注目して。名波さんがアップでジャンプをするんですけど、みんなで真似をして。名波さんがドリブルをしてサイド奥まで侵入してセンタリングをあげるフリをして後ろに落として、後ろから上がってきた選手がクロスをあげる、というプレーをしていたんです。僕たちはその真似をしていましたね。ひとつの戦術になっていました(笑)。ボールを持った選手に、後ろから「ナナ!」って声をかけるんです。そうすると必ず後ろに落とすことになっていたんですね。今でも習志野の同期で正月にフットサルをやるんですけど、ゲーム中「ナナ」「ナナ」ばかりなんですよ(笑)。名波さんはプレーもそうなんですが、人間としても素晴らしい人でした。順大との練習試合中に僕がパスを出したら、横から名波さんが来て「こっちのパスコースの方が良かったんじゃないか」ってアドバイスをしてくれたりしました。僕もパスが持ち味の選手だったから、名波さんにすごく憧れていたので、もう言い表せないくらい感動しましたよね。僕が試合に出られるようになったプロ入り3年目のジュビロ戦で途中出場した時にも、名波さんが近付いてきて「やっと出てきたか」って言ってくれたんです。去年、札幌ドームでヴェルディ戦があって、ヴェルディのロッカールームに行って知り合いと話をしていたら、奥の方から名波さんが「大塚! 頑張れよ!」って声をかけてくれて。僕自身があまりJ1での試合出場が多くないのに、僕のことをずっと覚えてくれたなんて、本当に素晴らしい方だと思います。
僕は1年生からメンバーに入れてもらって、試合には出たり出なかったりしていました。1年の時は選手権の県大会決勝で市船に負けて、全国には届きませんでした。千葉の中では大きなライバルが市船でした。市船の同期には秋葉忠宏(草津)がいました。スタメンに定着したのは2年生の途中からです。2年生で国体に入りたかったんですが、同学年が二人入ったのに、僕は入れなかったんです。それが悔しくて。それをバネとして伸びたんだと思います。また、2年生の頃からいいコーチが来てくれるようになったんですね。その方に新たな面を引き出してもらって。それまでは常に100%の力でプレーをしていたんですが、すべての面において力を抜くプレーをすることを覚えたんです。そのおかげと、市船が決勝までに負けてくれたこともあって、2年生の時の選手権には出場することができて、ベスト4に入りました。この準決勝で石塚さん(元名古屋)のいた山城高校と戦ったんです。石塚さんは負傷をしていて出られなかったんですけど、初めて国立で試合をすることが出来て、僕が1点取ったのに負けてしまったんです。ただこのおかげで優秀選手に選ばれて高校選抜に入りました。それもドキドキものでしたよね。2年でそんなのに入って、何も余裕はなかったですけど、他の方たちは3年なので余裕があるんですよね。松波正信さん(元ガンバ)、三浦淳宏さん(横浜FC)、永井篤志さん(仙台)、佐藤尽さん(元札幌)。メンバーもすごかったですから必死でしたね。海外遠征も行ったんですけど、かなり必死だったので、もう少し楽しんでやればよかったなあ、という記憶があります。海外に来ているという実感が全然ありませんでした。3年生になってインターハイは全国大会に出られましたが、選手権では決勝で市船に負けて出られませんでした。国体は3年生の時に出られました。千葉は市船と習志野の合同チームのような感じでした。ベスト4くらいまで行って、川口(磐田)田中誠(磐田)安永(元柏)がいる静岡に負けてしまったんですね。負けたら秋葉が一人で口を開かなくなってしまったんです。すごく悔しかったんでしょうね。
進路指導の時には、まずは先生に大学進学を勧められたんです。それなりに活躍が出来ていたし、いくつかの大学から声がかかっていて。僕も大学かな、と思っていました。そうしたらジェフから声がかかっているぞ、と先生から聞いたんですね。プロへの関心は強かったですし、地元のチームでしたから、その話を聞いた時はすごく嬉しかったんです。両親は大学に行って欲しい、と言っていたのですが、僕はもうプロへの気持ちが強くなっていましたので、そのまま決めました。
― プロになれた一番のポイントは?
サッカーがずっと好きだったからじゃないでしょうか。今でもそうですが、サッカーという競技にはまってしまったから。一緒にやっていたみんな以上に好きなつもりでやっていましたから。それが向上心につながって行ったんだと思います。