PROFILE
08.5.16 UPDATE

― 小学生時代(古和釜小学校)
近所の友だちはみんなサッカーが好きだったので、小さい頃から家の前にある公園でみんなと一緒にサッカーをしていました。その延長で3年生から週に1回のサッカー教室に入り、4年生からは小学校の部活に入りました。当時、アニメで「スラムダンク」が始まった時期だったので、みんなバスケに行ってしまって、部員が少なかったんですよ。僕らの代は11人いなかったくらいです。それでもサッカー部は強くて、船橋市内で優勝したこともあります。部活に入った頃、先生が船橋市選抜である船橋FCのセレクションに行かせてくれました。そのセレクションに受かって船橋FCに入りました。船橋FCは、今思うと指導がとても良かったんですね。技術練習も楽しく出来ていたし、毎回ゲームがあったのでそれも楽しかったです。すべて楽しかった記憶しかありません。僕は一つ上の代と自分の代で大会に出ました。一つ上の代はレイソル・ジュニアと県大会の決勝でPK戦で負けたんですが、その年、レイソル・ジュニアは全国制覇をしているので、地力はかなりあったと思います。自分たちの代は全国大会の予選でベスト8くらいで負けてしまったのですが、他の大会にはいろいろと成績を残していました。県選抜、関東選抜にも選ばれましたが、活動をしていた記憶はあまりありません。

― 中学生時代(ジェフ市原ジュニアユース舞浜)
船橋FCのコーチから推薦してもらって、6年生の時からジェフ・ジュニアユース中学1年生の練習に参加させてもらっていたんです。その年代は山岸さん(川崎)鈴木さん(神戸)を筆頭に上手い選手ばかりだったんですね。それに隣ではトップの人たちが練習をしていたんです。中西永輔さん(元横浜FM)とかものすごくかっこよくて。上手い人も多いし、トップの人も見られたので、迷わずジェフのジュニアユースに進みました。練習は週に4回か5回だったんですけど、練習が楽しくて、楽しくて、次の練習が待ち遠しくなるほどでした。指導はものすごく自由だったんです。それをちょっと勘違いして、ボールを取られても取り返しに行かなかったりした時に、監督からものすごく怒られた記憶があります。ひとつ上の代がものすごく強くて、全国大会で優勝しているんですが、僕たちの代はけっこう力があったんですけど、大会で勝ちきれなくて、一度も全国大会に出られませんでした。

― 高校への進学
ユースには上がれたんです。でも、僕は船橋出身でしたので、市船がすごく強いことを知っていましたし、地元で優勝パレードとかも見ながら育ったんですよね。かっこよくて、ずっと行きたいなあって思っていたんです。そんな中、布先生からもお話があったので、市船に進学することにしました。

― 高校生時代(市立船橋高校)
ジュニアユース出身なので、やはり部活は厳しかったです。1年生の時は永井さん(柏)がめちゃめちゃ上手かったんです。神様みたいな存在でした。試合に絡み始めたのは2年生の選手権予選からです。それまでも少しは試合に出させてもらっていたんですが、一つ上の先輩がケガをして、それからスタメンで使ってもらえるようになりました。本大会でいきなりスタメンで出たんですが、自分も右足の第5中足骨を疲労骨折していたので右足が全然使えなかったんです。だから「初めて選手権に出たんだ!」ということよりも、「まずい、右足が思ったより使えない!」という焦りの方が勝っていました。なんとか精神力で耐えて、6-0の大差で勝ったんですね。痛みを抑えて出来たということは、気持ちの上でも大きかったと思います。3年になって自分たちの代になり、インターハイでは全国大会に出られなかったのですが、選手権では優勝することが出来ました。決勝の国見も印象深いですが、準々決勝の野洲の印象が強いです。当時はまだ野洲の話題があまりなかった時代だったんです。この準々決勝を勝てば次は国立…という状況での対戦だったんですが、相手高校の情報はあまりないし、気を引き締めて行こうな、って試合に臨んだんです。そうしたら、野洲の守備がすごくよくて、全然点が入らなかったんです。市船って伝統的にPK戦が弱いんですよね。終盤になって「これはまずいな」って焦り始めていたんです。そうしたら残り2分くらいでカウンターから決めてくれて。すごく劇的だったですし、この得点がなかったら優勝はできなかったと思います。高校を通じて厳しかったですが、布先生の下で出来たことはすごく良かったと思います。また、練習を乗り越えた仲間たちとの絆は今でも強いんですよね。

元々、大学に行くべきだと思っていたんです。プロに入っても、すぐ通用するレベルだとは思っていませんでしたし。大学に行って4年後にプロになれなかったら、それまでの選手だということですからね。順天堂大学に行きたいと先生に希望を伝えて、一度練習に行かせてもらって、順天堂大学に入れてもらえることになりました。

― 高校生時代(順天堂大学)
1年は寮に入らなくてはいけないんですが、自分たちの部屋はみんな仲が良くて、楽しく過ごすことができました。入った当時は一部ながらも強くはありませんでした。市船時代って3点以上失点することってなかったんです。それがいきなり5失点、6失点が続いちゃったりしたんです。立ち上がりの失点だけはなくそうと、ミーティングを重ねたのに、立ち上がり5分で2失点したりして。監督は自主性を重んじて指示はあまりしない方だったので、それも含めて当初はかなり困惑しました。大学2年生の夏に大学選抜のセレクションに受かって、その流れで関東選抜Bに入って、ユニバ代表にも入りました。みんな本当に上手かったんです。最後のユニバは、淳吾さん(藤本選手/清水)、徳永さん(FC東京)、赤嶺さん(FC東京)、高橋大輔さん(大分)とか素晴らしいメンバーでした。ほとんどプロになっていますよね。このメンバーでユニバーシアードの大会でトルコに行って優勝したんです。ヨーロッパの選手たちはほとんど身体も出来ていて、もう大人なんですよね。ただ、技術面はそんなに高くなかったように思います。外国の選手と本気の勝負が出来た、ということも大きな経験でしたが、それよりも淳吾さんや徳永さんのような先輩たちと一緒にいられたことの方が刺激になりました。特に淳吾さんは同じ左サイドでしたから、走れば精度の高いパスがぴったりと出てくるし、プレーを見ているだけでも楽しくなりました。

3年生の終わりにマリノスの宮崎合宿に参加しました。すごい選手ばかりだから、あまり馴染めないだろうなあと思っていたら、気さくな人ばかりだったんです。いたずらとかしているし。(笑)ムードはすごく良かったんですけど、僕は人見知りなので全然話せなくて。そのことがかえってサッカーに集中することに繋がって、すごくいいアピールができました。その後、マリノスの強化の方から「来てほしい」という話を4年になったくらいからいただいていたのですが、他にも声をかけてくれたチームがいくつかありました。自分でしっかりと判断して決めたかったので、話を聞かせてもらって、悩んだ結果、やはり環境もチームも素晴らしいマリノスに入れていただくことを決めました。

― プロになれた一番のポイントは?
今まで出会った監督やコーチや仲間は大きな影響を与えてくれましたし、いつも楽しい環境でしたから、出会いには運があったと思います。それと、自分がやってきた中で、辛い時期もありましたけど、漠然としたものでしたが「自分はプロになるんだ」と常に考えて取り組んでいたんです。自分だったらもっとできるんだ、と常に自らを励まして乗り越えていましたので、そういう気持ちを持っていたことが良かったのではないでしょうか。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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