J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

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PROFILE

PROFILE

前田和哉選手

生年月日:
1982/09/08
身長/体重:
180/77
ポジション:
DF
経歴:
西脇中-初芝橋本高-大阪体育大

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PROFILE
08.5.30 UPDATE

― 小学生時代(八幡台サッカークラブ)
サッカーを始めたのは4年生の夏です。近所のゲーム仲間だったお兄さんがサッカーを始めたんです。それで僕もついていったのがきっかけです。監督はパンチパーマのとても厳しい方でした(笑)。入った時は楽しくやっていたんですが、5年生や6年生になると要求されることも出てきました。僕は気持ちが弱くて、スライディングもできなかったし、激しいプレーもできなかったんです。それで監督から「どんな根性しとるんじゃ!」って怒られまして。そこから少し根性入れてやるようになりました(笑)。実は、野球をしようかサッカーをしようか迷っていて、最初に野球の練習を見たんです。そうしたらすごく厳しかったんですよ。うわっ、これだったらサッカーしかないな、ということで練習を見ずにサッカー少年団に入ったんです。ところがどっこい、でした(笑)。少年団に入った当初はゴールキーパーでした。僕、小さい頃は背もそんなに高くなかったし、線も細かったんです。入ってすぐ監督に「お前、ゴールキーパーやってみろ」って言われてゴールキーパーになって。でも1か月くらい経って担当のコーチの人から「前田、フォワードやってみろ」と言われてフォワードをやってみたら、点をとりまくったんです。フォワードの才能が開花したんですね。「前田の切り返しは一級品や」って絶賛されていました(笑)。遠征に行く度に、毎試合ハットトリックしていたんですよ。まあ、後で相手が弱かったんだということに気付くんですけどね(笑)。そんな感じで監督には精神を、コーチには技術を教えてもらいました。なかなかいいバランスですよね? 八幡台サッカークラブは和歌山市では3本の指に入っていたチームでしたが、僕がいた間は全国大会には出られませんでした。僕が中学に上がった年に全国に出ていました。個人としては、6年生で市選抜に入りました。それで大会に出た時に自分が未熟であることを思い知らされました。僕の得意としていた切り返しは全て抑えられてしまったんです。県レベルでは一級品ではありませんでしたね(笑)。

― 中学生時代(和歌山市立西脇中学校)
中学校では全国大会常連の西脇小学校と一緒になって、かなり強くなりました。僕が3年生の時に全国中学校サッカー大会(全中)に5年連続出場という記録を作りました。今は国見中に越されたと思いますが、5年連続出場は全国でも初めてだったんです。西脇中学校の指導者は寺本先生というすごい方で、僕は今でも実家に帰ると挨拶に行きます。恩師です。寺本先生の仕事は教師ではなくて、水道屋さんでした。昔、西脇中学校にはサッカー部の監督がいなかったんです。そんな折、グラウンド脇の水道が壊れた時に寺本先生が水道を修理しに来たことがきっかけでした。そこでサッカーをやっていた生徒たちに、寺本先生がリフティングを見せてあげたそうなんですよ。そこで「うわっ、上手い!」って生徒たちが驚いて、「おっちゃん、監督してよ!」っていうことから始まったそうです。寺本先生はとても熱い方なんです。それに教える力がすごくありました。教える力ってどんなものか具体的に説明しろ、と言われると困るんですけど、同級生の間では寺本マジックと呼ばれていました。僕らの世代は粒が揃っていなかったので谷間の世代…って呼ばれていたんですけど、そんな僕らを全国大会に連れて行きましたからね。はっきりしたことはわからないんですけど、たぶん僕たちの心を見抜ける先生なんだと思います。厳しさもあり、優しさもあり。ピッチの中では厳しく指導をするんですけど、一歩外に出たら、その指導されたプレーのことを笑いながら話してくれるんですよ。まあ、それでもピッチの中では相当怒られましたね。いつの時代でも、僕って怒られ役なんですよね。試合には2年生から絡み始めて、県大会の決勝でディフェンスの股を抜いて、ロングシュートを決めました。6-0で勝っていたので、勝敗には影響なかったのですが(笑)。この全国大会では準決勝まで行って、松下さん(草津)のいる群馬の高松中学校に負けました。この後からボランチでプレーするようになり、3年生では全中に行きましたが1回戦で負けてしまいました。

― 高校への進学
3年生の夏に大会が終わって引退になるんですが、そのお別れ会で挨拶する時に、僕は「強い高校に入ってサッカーを続けたいので、ぜひ応援してください」って話をしたんです。それまで、寺本先生は僕がそう思っていることを知らなかったんです。その話を聞いて「そんなに強い気持ちを持っているのであれば、絶対に行かせてあげたい」と思ってくれたようなんですね。いろいろと話をしてくれる中で、ある日、初芝橋本が西脇中学校の近くにある和歌山大学で天皇杯を戦ったんです。その試合の帰りに初芝橋本の監督を呼んでくれたんです。初芝橋本の監督は僕を見て「あいつはいけますよ」って言ってくれたんです。それでスポーツ推薦で初芝橋本に入ることが出来ました。

― 高校生時代(初芝橋本高等学校)
先生も厳しかったですし、上下関係も厳しかったですが、1年から3年まで3回連続選手権に出られました。1年生の時は県大会ではずっと出場していたんですが、本大会に入って調子が出なくてベンチになって1回戦で負けてしまいました。2年生の全国大会では3回戦で前橋育英と当たったんです。僕は最初ベンチにいたんですが、センターバックの先輩のパフォーマンスがあまり良くなくて、交代でセンターバックとしてピッチに入ったんです。この前橋育英は強かったですよ。プロになった人がほとんどでした。僕、佐藤正美さん(元草津)に当たりに行ってふっとばされたんです。こら、あかんわ。ディフェンダーとして吹っ飛ばされるというのはなんやねん。筋トレを積極的に始めたのは、そこからですね。スクワットもして、ベンチプレスもして。それからはずっとセンターバックとして使ってもらえるようになりました。3年生でも選手権に出て、1回戦の山形中央戦では僕が1点決めて勝ちました。いい思い出です。2回戦、真岡高校に1-0で負けました。天皇杯も全部出ました。2年生の時に1回戦を勝ち上がって、FC東京と試合をしました。西が丘でやったんですけど、アマラオ、トゥットがいて6-0のボロ負けです。3年生の時はトリニータとやって。シジクレイや高松さんが出ていて、5-0で負けました。コーナーキックでは僕がシジクレイについたんですが、ヘディングでは全て負けました(笑)。それでも点は入れられませんでしたけどね。プロは全然違いました。レベルが全然違いました。なんにも出来ませんでした。

高校ではプロなんて絶対ムリだから考えてもいなかったので、監督から推薦してもらって、セレクションを受けて大阪体育大学に入りました。

― 大学生時代(大阪体育大学)
大学でもサッカーをやろうと思って推薦で入ったのに、高校時代で燃え尽きた感があったんです。自分では燃え尽き症候群だったと言っているんですが(笑)。大学入って半年間はなにもやる気が起きなかったんです。でも、大学のコーチがみんなを集めて、「みんなはまだまだ可能性を持っている。これからプロと対戦したりもするし、大阪体育大学を強くしていきたいから頑張ってくれ」と熱い言葉を言われた時に、ぐっと気持ちが盛り上がるものがあったんですね。それと、下村東美さん(千葉)が先輩だったんですけど、下村さんの意識の高さと、練習が終わったあとも一人でグラウンドに残って練習している姿を見てすごく触発されたんです。尊敬できる先輩でしたし、自分もあれくらい努力しなくてはいけない、と思ったんですね。それと練習試合でセレッソと対戦することがあったんですが、その中で自分が通じるところもあったんです。そんなところから気持ちが高ぶっていき、本当にプロを目指そうと思うようになりました。それからは筋トレも週2回必ず行っていました。大学って自主性を重んじているから、あまりとやかく言われないんです。でも、身体もまだまだ細かったですし、人と同じことをやっていってもしょうがないですから、身体作りは一生懸命にやりました。
大阪体育大学は関西1部リーグだったんですけど、入学した時は7位とか8位とかの順位でした。僕が2年生の前期に順位が下がって2部に落ちて、後期に巻き返しをして、3年生からまた1部にあがって、3年生の秋に8年ぶりにインカレに出ました。そのインカレでベストイレブンに入ったこともあって、3年生から4年生に上がる時に関西選抜に選ばれました。ようやく選抜で戦える実力まで来た、という手ごたえが自分にはあったし、今回は選ばれたいという気持ちもありました。その関西選抜のメンバーがまた良かったんです。特に江添(C大阪)と深谷(大分)の3バックは本当に楽しかったです。僕と深谷が坊主じゃないですか。真ん中にいるイケメン江添のSPと言われていました(笑)。これがネタだったんです。今でもエゾとそんなことを喋っていますよ。前田雅文(甲府)や同じ大学の近藤岳登(神戸)がいて。でもデンソーチャレンジカップでは4位だったんですよ。近藤が外しまくったんです。あいつ、動き出しのタイミングは一級品なんですよ。でもキーパーと1対1になったら必ず外すんです。「あの時決めていたら、俺たち優勝しとったで!」って、今でも会うと言っていますよ。関東選抜と3位決定戦をしたんですけど、それはもうボロボロでしたね。向こうの方が格段に上でした。日韓戦には選ばれませんでした。江添と深谷は行っていました。二人は大学1年生の頃からすごく注目されていたんですよ。そういう意味でも「あいつらに負けたくない!」という気持ちはずっと持っていました。それも成長するひとつの要素だったと思います。

どうしてもプロになりたかったので、福岡、川崎、山形とテストを受けに行きました。山形には保留をもらったんですが、その時には練習生としてセレッソに来ていたので、セレッソで判断してもらってからと考えていました。高知キャンプは第一次キャンプでしたので練習試合はなく、宮崎の第二次キャンプで福岡との練習試合に出場できるチャンスが来たんです。自分のプレーを見せる場がようやく来た。これであかんかったらもう後はない。そう思って死に物狂いでやりました。自分自身でも、自分のプレーを最大限出せたと思いました。そこで決まりました。当時の監督は小林さんでした。コーチの大熊さんは、夏に福岡のテストを受けに行った時のサテライトのコーチだった人なんです。僕のことを知ってもらっていて、あの選手いいぞ、って言ってくれていたようなんです。この話を後で聞いて、ものすごく嬉しかったんですが、この一言の影響はすごく大きかったと思います。契約の話をいただいて、条件はそんなによくなかったので、父親に相談してみました。そうしたら「プロになれるのはほんの一握りなんだぞ。とにかくやれるだけやってみろ」と言われて。プロを目指していたので、そこに到達出来たという達成感はあったし、とにかく1年で結果をだすぞという強い気持ちを持てたので、結果的には良かったんだと思います。

― プロになれた一番のポイントは?
辛い時にどうするか、ですよね。山があったり谷があったりするじゃないですか。そんな辛い時期をどう耐えて、前に進んでいくか、だと思うんです。小学校、中学校、高校、大学とスーパースターはいたんですが、そういう選手たちは結局プロにまではなれませんでした。スーパースターもプロになれない、どこかに原因がある、そう思った時に考えられるところは「気持ち」だと思うんですよね。そういう意味で気持ちを強く持てたおかげだと思います。それと大学の時、父親に「俺、プロを目指して頑張るわ」って宣言したんです。そうしたら「出来るだけバックアップするから、頑張ってみろ」って言われたんですね。自分自身、言った以上言い訳は出来ないじゃないですか。そうやって自分に追い込みをかけ、気持ちを奮い立たせたというのもあると思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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