PROFILE
08.6.13 UPDATE

― 小学生時代(まつひだいSC)
幼稚園の年長からふたつ上の兄が入っていたクラブチームに入ってサッカーを始めました。小学校に上がってもそのままそのチームにいました。エリートもいないし、メンバーも学年に16人くらいしかいないチームだったんですが、かなり強いチームでした。千葉県の大会はほとんど勝っていました。コーチがすごく熱い人だったんです。コーチのサッカーに対する愛情に影響されて、みんなもサッカー小僧になっていくというか。そのコーチと一緒にサッカーをすると、サッカーがどんどん好きになっていって、サッカーだけは負けたくないと思うようになっていくんです。プレーだけではなくて、ルールや世界のサッカー事情もいろいろと教えてくれました。今、小学生を教えていて一緒に泣けるような人っていないじゃないですか。コーチはそれができる本当に熱い人でした。すごく良いクラブチームだったと思います。4年生からサイドバックになって、ひとつ上の代の試合に出させてもらいました。そんな中、松戸市の選抜チームである松戸FCに5年生から入りました。松戸FCには、まつひだいSC から11人中9人入っていたんですよ。全日本少年サッカー大会には中村直志選手(名古屋)が率いる船橋FCに決勝で負けて、出られませんでした。中村直志選手は当時から上手かったですよ。

― 中学生時代(鎌ヶ谷三中)
まつひだいSCの選手は松戸市が多かったので、みんなバラバラになってしまい、僕は鎌ヶ谷市にある地元の中学校に入りました。のびのびと楽しくサッカーをするチームでした。けっこう厳しい指導をする先生がいて、そこそこの成績はあげましたが、県大会に出られたとしても2回戦どまりでした。個人的には葛南地区の選抜に選ばれましたが、千葉県選抜には最終的に落ちてしまいました。

― 高校への進学
本当は千葉県の公立高校に行きたかったんですけど落ちてしまいまして、顧問の先生から「サッカーが強いから受けておきなさい」と言われて受かっていた修徳高校ともうひとつの高校の間で悩んだ結果、修徳に進学することを決めました。

― 高校生時代(修徳高校)
電車と歩きを合わせて1時間20分くらいかけて修徳高校まで通いました。最初に仮入部した時には部員が1学年で150人くらいいたんですよ。そんな中でポジションを決める試合があったんですが、センターバックにはものすごく人が並んでいたので「これはムリだな」と思って、中盤の守備的なポジションに並びました。修徳は学校にあるグラウンドと、選抜チームがバスに乗って行く柏のグラウンドがあるんです。選抜チームは45人乗りバスに乗っていくのですが、1年生は10人しかいませんでした。僕は最初から柏グラウンド組に入ることができました。
練習はさすがに厳しかったですね。もう3年間やり直せって言われたら、出来ないと思います(笑)。特に走りは厳しかったですね。学校から柏グラウンドまで20kmくらいの距離を1週間走ったことがありました。走っただけではなくて、もちろんそれから練習があるんですよ。あと、市川までのマラソン…イチマラというのもありました。試合に絡み始めたのは2年生からです。高校選手権の全国大会には3年生の時に出場しました。東京朝鮮に勝ち、準決勝で帝京に勝ち、決勝で暁星に勝ち、と強豪をことごとく打ち破っての出場でした。本大会では宮崎の日章学園に、ホームの西が丘で、気をつけろと言われていたロングスローで負けました。修徳は厳しかったですけど、人との接し方や人間形成という意味ではすごく良い学校でした。「サッカー選手である前に修徳生たれ」というような。他の学校に行かなくて良かったと本当に思います。

進学希望はまつひだいSCのコーチの出身大学に行きたかったんですが、監督が「その大学は昔と違ってサッカーはあまり強くなくなったから国士舘はどうだ?」と話をしてくれたんです。それで国士舘の練習に参加させてもらいました。ただ国体メンバーに入っていなかったので、体育学部への大学からの推薦はムリだったんです。僕は勉強の方も頑張っていまして、クラスでの普通より良い成績だったので高校の一般推薦枠に入れてもらい、推薦で入学しました。

― 大学生時代(国士舘大学)
大学リーグの試合に絡んだのは3年生の秋です。それも2試合くらいでした。自分の中では自信を持ってやっていたんですけど、メンバーには入れてもらうことができませんでした。Aチームには入っていたんです。でも、練習まではレギュラー組でプレーをしていて、夜のメンバー発表では入っていない。そんな状況もありました。当時、国士舘はJFLに加入していましたのでJFLの試合には出られました。おかげで試合勘だけはなくさずにいられました。不遇な状況の中でも腐らずに、夏の総理大臣杯に出ることを目標に練習を続けていました。4年の時には手が届きそうな位置にいたので、なんとしてでも総理大臣杯に出たかったんです。そこで、3年間受けていた教員免許の授業の教育実習をあきらめて総理大臣杯にかけたんです。2週間くらい練習を抜けると、ただでさえ当落ギリギリのラインにいるんだから選ばれない…そう考えたんですね。それなのに総理大臣杯には出られませんでした。「二兎を追うものは一兎も得ず」と言うじゃないですか。僕は一兎しか追っていないんですよ。でも、一兎にかけたのに二兎とも得ず、になっちゃいました(笑)。個人的にはボールをとにかく蹴りましたね。グラウンドが壁に囲まれているようなところだったので、練習の前にはとにかく何時間でもボールを蹴っていました。同学年にもサッカー小僧がたくさんいますから、練習が終わってから西村卓朗(大宮)とかと1対1とかをずっとしていました。

高校時代はあまりプロを意識するようなことはなかったんですけど、大学になると先輩たちがどんどんプロに入って行くんです。また、高校の場合は先に大学という選択肢があったんですが、大学の場合は次には就職なんですよね。やっぱりサッカーしたかったのでプロになりたいと思っていたんですが、置かれている状況はあまり良くなかったのでオファーなどはありません。今考えると楽観的だったなと思う出来事がありました。ある日、先生からJFLのチームの話をもらったんです。それは、その場で返答しなければならないような急な話でした。先生がここに行った方がいいぞと勧めてくれたのですが、僕はプロになりたかったので「お断りしてください」って話をしたんです。本来であれば大学選抜にも入っていないんですから話が来ただけでも良かったのに、それを断ったものですから、もうほかの話はありませんでした。そこで大宮の社員になっていた先輩を頼って「練習に参加する方法はありませんか」と尋ねたところ「セレクションがあるよ」と教えてもらって。そこで同期の何人かの選手と出かけて、ポゼッションと試合形式のセレクションを受けたんですね。そこでコーチに良く見てもらいまして。「明日から練習に参加してみないか」ということになったんです。それから10日間練習に参加しました。大学の4年間分をその10日間で経験させてもらいました。上手い選手がいっぱいいて。野口さん、小阪さん、岩瀬さん、斉藤さん。僕はディフェンダーなんですが、ボールを持ったらいくらでも出しどころがあるんですよね。やっていてすごく楽しかったですし、そのおかげか上手くいったんです。それで10日目に清雲さんから、仮契約の話をいただきました。もう本当に嬉しかったです。

― プロになれた一番のポイントは?
もちろん自分の意志や信念は大切なんですが、人との出会いなんじゃないでしょうか。よく母親に「運がいい」と言われます。高校は自分の行きたいところへ行けず、大学では試合に出られなかったですけど、今ここまでやれているというのは指導者や友人の影響が強いんだと思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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