J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

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PROFILE

PROFILE

古賀正紘選手

生年月日:
1978/09/08
身長/体重:
185/79
ポジション:
DF
経歴:
大川中-東福岡高-名古屋グランパスエイト

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PROFILE
08.8.29 UPDATE

― 小学生時代(大川小学校)
正式にサッカーを始めたのは3年生の時です。僕が住んでいた大川市は元々サッカーが盛んな地域でした。小学校が八つあって、すべての小学校にサッカー部があり、どのチームもそれなりに強かったんです。そんな周囲の影響もあって、幼稚園の頃から友だちと遊びでサッカーをしていましたので、小学校のサッカー部に入れる3年生になったと同時に自然とサッカーを始めたという感じでした。大川市の中でも僕の通っていた大川小学校は強いチームで、県大会にはいつも出場していましたし、僕の代では県大会で優勝して、九州大会まで出たことがあります。指導者の方は3年生の時とそれ以降で違いました。3年生の時にはサッカーの楽しさを教えてもらい、4年生以降はテクニックを重視し、勝負にこだわる指導をしてもらいました。「基本のテクニック」というビデオがあったんです。それを週に一度みんなで見て、練習にも取り入れていました。僕は小さい頃から高校2年生までフォワードで、点を取る楽しさしか知らないようなタイプの選手でした。4年生の時に6年生の遠征に一緒に行って試合に出ていましたが、小学生でも一学年違うといろいろな差があってやりにくかった記憶があります。
個人としては、県選抜に入って九州地区のトレセンに行きました。僕はどちらかというと身体能力系の選手でウラに抜けることを得意としていたのですが、トレセンには自分にないテクニックを持った選手がたくさんいました。それまではかなり自信を持っていたので、ちょっとショックを受けた部分はありましたが、せっかくだから他の選手のいいところを取り入れてやろう、と思っていました。でも、最終的には残念ながら九州選抜には入れませんでした。

― 中学生時代(大川中学校)
地域の中学校にそのまま上がりました。大川中学校には県大会で優勝したメンバーが上がったので、決して弱いチームではありませんでしたが、戦術的な要素を取り入れた練習をしていなかったので、頑張っても県でベスト4どまりでした。僕は1年生の頃から試合に出ていましたが、小学校のころと同様に、先輩の中ではやりづらかった記憶があります。3年生の時に九州選抜に選ばれて行ったトレセンで、中3、高1、高2の三世代でチームを作って東西対抗戦を行いました。そこには有名な高校からいろいろなタイプの選手が集まっていて、そこでもショックを受けました。技術的な差もかなりありました。ですが、そのトレセンを見に来ていた松田保監督のやっているU-16日本代表に入れてもらいました。

― 高校への進学
いくつかの高校から誘いがあったのですが、高校サッカーにそんなに詳しくなかったので、どこに行ったらいいのだろうと迷っていたんです。そんな中、九州選抜トレセンで小島宏美さんに出会いました。いろいろと相談をしてみたら「東福岡はいいよ。俺が面倒見てあげるから来いよ」って言ってくれたんです。この一言が大きく影響して、東福岡高校に進学することを決めました。

― 高校生時代(東福岡高校)
最初は大変でした。寮もなく、下宿も認められていない時代でしたので、自宅を6時半に出て2時間半かけて通学していました。そんな努力をしていたのですが、なかなか試合には出られませんでした。ひとつ上に小島さんと山下芳輝さんというすごい2トップがいたからです。今になって客観的に考えると出られなくてもしょうがなかったんですが、小学校、中学校とずっと試合に出ていて、試合に出られないという経験はこれが初めてだったんですね。これは大きな挫折でした。気持ちの支えとなったのは、U-16日本代表です。そちらでは試合に出られたので、それが支えになりました。ただ、そのU-16でもフォワードではなく、サイドバックとして出場していたんです。最初の合宿に参加した時に松田監督から「サイドバックをやってみないか」と言われました。自分はフォワードのつもりで行ったのに、サイドバックと言われたのはかなりの衝撃でしたし、「えっ、できないよ!」と心の中では思いました。でも、さすがに嫌だとは言えないので、やってみましたが、上手くいかなかったですし、満足感もありませんでした。代表から高校に戻ると、志波先生がそのことを知って「ウチでもサイドバックをやらないか」と言われました。このことにはすごくショックを受けましたし、納得できませんでしたので、首をタテに振ることはできませんでした。1年生の時には高校の試合に絡むことなく終わりました。2年生になってU-17代表合宿で今度はセンターバックにコンバートされました。これが意外とハマったんです。楽しさもありましたし、自分の中に手ごたえがあったんです。高校に戻っても「一度センターバックをやってみようか」と志波先生から話があって、取り組んでみたら、やはり満足できるパフォーマンスができました。フォワードとはまた違った楽しさもそこにはありました。その後、2年生の夏にエクアドルで行われたU-17世界大会に出ました。今思い出してみると、17歳ながらも「日の丸を背負って戦っているんだ」というプレッシャーがあって、サッカー人生の中で一番緊張した大会でした。アフリカのチームとも初めてやりましたし、すごく影響を与えられた大会でした。ポジショニングも少し甘いとやられてしまうし、もっとパススピードを上げなければいけないという課題を感じたので、意識がすごく変わった大会になりました。また、チームメイトに小野や高原というレベルの高い選手がチーム内にいたので、そのこともいろいろな刺激になりました。得るものは大きかったですね。そして高校ではセンターバックで出場した2年生の高校選手権でベスト4まで行きました。選手権が終わった頃には「自分はセンターバックしかできないな」と思うようにまでなっていました。3年生に上がった時に、小島さんと山下さんが卒業して大きな壁はなくなったのですが、もうフォワードをやろうとは思いませんでした。

3年生になって、志波先生の勧めで、Jリーグのクラブの練習に参加しました。全部で10クラブの練習に参加しました。プロの練習に参加してみると、通用しないところも多かったので、参加するたびに「自分は過大評価されているな」という気持ちを強く感じるようになりました。特に判断やパスなどのスピードに差を感じました。不安もありました。良い評価をいただいている中で、いざ入団した時に、周りからの評価と実際の自分の実力に、大きなギャップが生じるのではないかという不安を、この当時はずっと抱えていましたね。いろいろなチームに参加させてもらって、いろいろな人と話をしている中で、すぐに試合に出られなくとも、目標になれる選手が多いチームに行った方が学ぶべきことが多くていいのではないかと最終的に考えました。また、当時スカウトだった平木さんが熱心に誘ってくれたこともあったので、その時、学ぶべき選手が多いと思った名古屋に行くことを決めました。

― プロになれた一番のポイントは?
フォワードからディフェンダーに変わったことが最大だと思います。もちろん本意ではありませんでしたが、ディフェンスの方が向いていると判断されたということを自分の中で受け入れた時に、プロという道が開けたんだと思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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