PROFILE
08.9.26 UPDATE

― 小学生時代(FCコラソン)
サッカーを始めたのは3歳からです。親戚のお兄さんがサッカーをやっていて、一緒に遊んでもらっているうちに、自然と自分もボールを蹴り始めたことがきっかけです。幼稚園に入ってすぐ、幼稚園のサッカークールに入りました。そのサッカースクールは小学校に上がっても持ち上がりで入れたので、そのままそのクラブチームでサッカーを続けました。監督は鹿児島出身の方で、「コラソン」というポルトガル語のチーム名にするくらいブラジルが好きな監督でした。とにかくボールに多く触って、ドリブルも仕掛けるような、ブラジルっぽいサッカーをするチームでした。僕はドリブルが大好きでした。ブラジル遠征もあったんですよ。4年生の時に2週間くらいブラジルに行きました。チームは相模原市内では強かったんですけど、県に行くとベルマーレやマリノスのようなJクラブの下部組織が強かったので、なかなか勝ち上がることはできませんでした。

― 中学生時代(FCコラソン)
同級生たちがみんなFCコラソンのジュニアユースにあがったので、僕もそのままFCコラソンにあがりました。やはり中学時代も市大会では勝ち上がれるのですが、県大会に行くと、マリノスやベルマーレに勝てませんでした。唯一、3年生の時にフットサルの大会で勝ち抜いて全国大会に行き、3位か4位になりました。中学時代に県選抜に入りました。今まで対戦相手だったマリノスやベルマーレの選手たちと一緒にプレーすることは面白くもありましたが、やはりみんな上手かったので強く刺激を受けました。3年生の時に、またブラジルに遠征に行きました。小4の時の遠征の印象はあまりないのですが、この遠征の印象は強く残っています。みんな裸足でサッカーをしていたこともそうなんですが、一番はサンパウロFCの同じ代のチームと試合をして全く歯が立たなかったことですね。めちゃ上手いんですよ。スピードもあるし。全然違うんです。でも、後から聞いたら、彼らはジュニアユースチームではなくて、チームに入れないサンパウロFCのスクール生だったんです。もうこれは衝撃でしたね。

― 高校への進学
マリノスユースからの誘いもありました。でも僕の代のマリノスはどこも強かったんです。菅田も新子安も追浜も高円宮杯でベスト16に入っていたくらいです。その主力がみんなユースに上がることになったんです。監督からも「出られるかどうかわからないぞ」と直接言われました。その時、桐光からも話をいただいていたんですね。学校だったら練習するために移動する必要もありませんから、桐光に進学することを決めました。

― 高校生時代(桐光学園高校)
初めて部活に入ったので多少戸惑いはありましたが、3年生に藤本淳吾さんがいて、いろいろと優しくしてくれました。ありがたかったです。それに中学までとは違って、週に2回フィジカルトレーニングがあったんです。器具を使ってハードに筋トレをするのは初めてでしたので、これはすごく厳しかったですね。今になって思うと、ここでしっかり筋トレをして、土台を作ったのが良かったのだと思います。試合には1年生の夏から出させてもらっていました。7月にU-16の選考会合宿が新潟であり、それに参加したところ通ってU-16日本代表になって、豊田で行われた国際大会に出場しました。初めて代表のユニフォームを着たのでかなり緊張しましたね。ただ、集まってすぐの大会でしたので、まったく連携が取れておらず、試合は全然だめでした。1年生の選手権は県大会決勝の桐蔭戦で淳吾さんがPKを外して、出られませんでした。その後も2年間選手権は出られず仕舞いでした。2年生のインターハイで全国大会に出ることができましたが、増田誓志のいる鵬翔と当たったんです。誓志が上手くて、上手くて。5-1くらいで負けました。正直なところ「鵬翔ってどこの県の高校なの?」というくらいマークしていなかったのですが、大敗したのは衝撃的でしたね。3年生の時には国体に出ました。小さい頃から知っている選手がそろっていたんですね。谷口博之、鈴木健太、天野貴史、田中裕介、永里源気、飯倉大樹。でも、すぐに負けるんじゃないか、って思っていたんですよ。だからTSUTAYAでCDをレンタルしたままだったんですが、勝ち抜いてしまって、優勝してしまいました。おかげでCDの延滞料を払わなければならなくなりました(笑)。

3年生の時に誘ってくれたJクラブはありました。一日だけですが、練習にも参加しました。ただ、僕としては複雑な心境だったんです。原因はケガです。2年生の冬に足を骨折して5カ月くらいサッカーが出来なかったんですね。復帰してからも、なかなか感覚が戻らなくて、自信をなくしていたんです。そんな時でしたし、誘いも1チームだけでしたので、まだプロは早いんじゃないかと悩んでいたところ、先生から「大学に行ってからでも遅くないぞ」って言ってもらえて。それで進学することを決めました。高校から推薦してもらって駒沢大学に行く予定になっていたんですが、書類上の手違いがあって行けなくなってしまったんです。その時に法政大学から話をもらって。法政は関東2部でしたが、川勝さん、水沼さんという元プロの方がコーチをしていた上に、実家から車で10分くらいだったので、法政に進学することに決めました。

― 大学生時代(法政大学)
知っている先輩も多く、しっかりと繋ぐサッカーでしたし、すごく楽しかったんです。ただ、川勝さんの練習は非常にきつかった。筋肉にも来る、心肺にも来る。本当にすごかったんです。さらには90分間、絶対に集中しろというスタイルでした。ここでサッカーに対する厳しさを学びました。試合も多く、その中で体力をつけていったという大学時代でした。法政大学に入ったのは正解だったと思います。1年の時から関東選抜と大学選抜に選ばれて、2年生の時にトルコで開催されるユニバーシアード日本代表の候補に選ばれたんですが、夏の最終選考で落ちてしまいました。これは悔しかったですね。3年生になって五輪代表の合宿に呼ばれるようになりました。この合宿で、Jでやっている同年代の選手たちと一緒にプレーをすることになるんですが、全然違ったんです。トラップも違うし、パスも正確だし。身体つきも違うんです。僕と同じ身長の選手でも体重が3、4kg上だったりするんです。プロは違うんだ、と差を痛切に感じてしまったんです。これはもっと頑張るしかない、と思うようになりました。そんな気持ちもあって、その後からエスパルスで練習をさせてもらうようになりました。6月くらいに初めて練習に参加したんですが、かなりいい雰囲気だったので、すんなり溶け込むことができました。ただプロ選手との差はかなりあったんですね。その差を埋めようと努力していきました。4年生の時にタイで開催されたユニバーシアード日本代表になりました。大会ではイタリアと戦って、0-0でPK戦になって負けました。イタリアにはプロが何人かいたんですよ。そうなるとやはり強いですよね。イタリアはアイディアが面白かったんです。ああ、そこでそんなプレーをするんだ、というように意外なアイディアがあったんです。これはいい勉強になりました。また、タイのチームと初めて試合をしたんですが、すごく繋ぐんですよ。ええっ、そこまで繋ぐの? というくらいに。繋ぎもしっかりしているし、足元もしっかりしています。これで体格がいい選手が揃って来たら、セットプレーでもやられなくなるから、タイはこれから要注意だな、と思いました。

4年生の時にはいくつか他のチームの練習にも参加しました。でもやっぱり清水に入れてもらうことを選択しました。最初に声をかけてもらったということもあります。それにチームの雰囲気もアットホームですし、なにより淳吾さんがいたのが大きかったです。淳吾さんには、本当によくしてもらったんです。今でも、いい兄貴みたいな存在です。

― プロになれた一番のポイントは?
小さい頃にサッカーを楽しんだからだと思います。当時、サッカーを楽しんでいなかったら、絶対に続けていなかったと思います。それを教えてくれた指導者の方々の力が大きかったと思います。それと大学時代に川勝さんに教えてもらったことでしょうか。繋ぐサッカーをしながらも、フィジカルをかなり鍛えられましたし、プロの厳しい意識を教わりました。これは大きかったですね。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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