J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

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PROFILE

PROFILE

河端和哉選手

生年月日:
1981/10/22
身長/体重:
174/70
ポジション:
DF
経歴:
苫小牧啓北中-青森山田高-札幌大-コンサドーレ札幌

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PROFILE
09.02.06 UPDATE

― 中学生時代(苫小牧啓北中)
小さい頃からひとつのスポーツに絞ると、大きくなった時に情熱を失うから、小学校までは自由に遊んだ方がいい、というのが親の考えだったので、サッカーをちゃんと始めたのは中学校の1年生からです。入ったサッカー部は、最初、どこにでもある普通のサッカー部だったのですが、2年生の時に、恩師であり、今でも連絡をとっている石沢先生という方が赴任してきて、サッカーができる体制をしっかりと築き、専門的な練習メニューを組んでくれました。おかげで、それまで苫小牧市の中でもなかなか勝ち抜けなかったのですが、僕が3年生の時には市大会で優勝や準優勝ができるようなチームになりました。選抜は北海道選抜に入りました。選抜に行くと札幌や室蘭の選手はレベルが違うんですよね。やはりいつもと違った世界がありました。すごいなあ、と感心するばかりでした。

― 高校への進学
青森山田の黒田監督は、中学校の石沢先生の後輩でしたので、先生が話をしてくれました。それで黒田監督に見てもらって、青森山田に入れることになりました。室蘭大谷という選択肢もいただいていたのですが、練習に参加してみたら、当時の僕にはレベルが高すぎたんです。青森山田は当時、室蘭大谷よりややレベルが低かったので、親や先生とも話をして、チャンスが多い方がいいんじゃないか、という判断の元、青森山田に進学することを決めました。

― 高校生時代(青森山田高)
青森山田は寮生活ですし、門限はありますし、朝6時に起きて掃除をしなくてはいけませんし、髪型、服装、言葉づかい、挨拶など、全てを正す学校でした。町で校長先生を見かけたら、走って行って挨拶をしなくてはいけない…それほど、規律が厳しい学校でした。髪型など、誰かが規則を破っていた場合、サッカー部全員坊主、とかもありました(笑)。新入生6人で重い道具を使って、朝1時間、練習後1時間、居残りでグラウンド整備をしました。手にマメができて、「俺たち、いったい何部なんだろうね…」とみんなで話をしていました(笑)。そんな状況であっても、変な上下関係は全くなくて、先輩たちが注意する時は「筋が通っていないことをした時」と「仕事が出来ていなかった時」に限られていました。それ以外は、普通に仲の良い上下関係でした。そういう意味では、人間形成のためにとても良かった経験だったと今でも思っています。試合には、2年生から絡めるようになりました。エスパルスなどに所属していた田中さんという方がコーチにいたのですが、僕と身長もタイプも同じだったんです。田中コーチがいろいろと教えてくれたんですね。1年生の選手権の合宿で、Bチームのディフェンダーが一人足りなかったんです。河端やってみろ、ということでディフェンダーに入ったら、相手の大学生をことごとく潰してしまったんです。僕に適したポジションはディフェンダーだ…という流れがそこで出来ました。そうして、年明けから出来が良くても悪くても、ずっとディフェンダーで使ってもらえるようになり、ディフェンダーとしてポジションを掴みました。僕は身体能力がそれなりにあったのですが、それまでディフェンダーのポジションには入ったことがなかったので、ポジショニングなど経験の差があり、2年生の時は正直なところ、なにもできませんでした。でも、その間ずっと使ってもらえたことで、経験の差を少しずつ詰めていくことができました。また、青森山田にはブラジル人がいたので、いつも一緒に練習できたことも大きかったと思います。

2年生の時に、周囲のレベルを見て、僕はプロにはなれない、と思っていたんです。でも、田中コーチは「3年生になったら、また変わると思うから、頑張れ」と励ましてくれていたんです。実際に3年生になったら、いくつかの大学から誘いを受けました。その中で、北海道に帰りたいと言う気持ちがあったので、札幌大に進むことになりました。

― 大学生時代(札幌大)
札幌大は北海道では強いんですが、全国で考えるとそんなにレベルが高くないチームでした。当初は北海道でまあまあ上手かった選手が集まる…という程度のチームでしたが、コンサドーレでコーチをしていた人が入ってきて、選手たちも全国から集まってくるようになったんです。そのため、チーム力がどんどん上がりました。3年生になると、ベルマーレでプレーをしていた小松崎さんがコーチとして入ってきて、また一層強くなりました。僕は指導者に恵まれているんですよね。2年生の終わりに各地域選抜から数名ずつ推薦メンバーを集めた、ユニバーシアードの候補合宿がありました。アフリカ合宿に行く候補メンバーを27名に絞る合宿でした。その時、僕はセンターバックのポジションだったのですが、なぜかサイドバック登録になっていたんです。「えっ、違いますよ?」と話したら、「いや、北海道サッカー協会からサイドバッグで選抜されているよ」と言われて。よくわからなかったのですが、しょうがありませんし、慣れないサイドバックのポジションですから、ドリブルばかりしていたんです。そうしたら、最終候補に、それもスタメンで入ってしまいました。変ったのはそこからでしたね。それからは、代表合宿には全てコンスタントに呼んでもらえました。それでユニバーシアード本大会に出場することができました。世界で戦うという経験はすごいものでした。国によって、上手いとか、強いとか、選手の質が全く違いましたし、いろいろと考えさせられる経験でした。デンソーカップで韓国に負け、今までで一番弱いユニバ代表だと言われていたのですが、本大会で優勝できたので、本当に嬉しかったですね。みんな泣いていました。

4年生でユニバから帰ってきて、すぐにコンサドーレで練習を始めました。他からも誘いはありましたが、札幌という土地が好きでしたし、強化指定の頃から普通に練習をさせてもらっていたこともあり、環境にも慣れていましたので、最終的には札幌を選びました。

― プロになれた一番のポイントは?
自分をよく知っていたからだと思います。自分はどういう人間で、どういうことをしたら良くて、どういうことをしたらだめなのか。なにが出来て、なにが出来ないか。常に自分を把握することを心がけ、意識して練習するようにしています。自分を知ることによって、自分のいいところを出し、悪いところを直そう、としています。自分を知る、ということが、成長することができる一番のポイントなのだと思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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